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【東ティモール徒然】    記:樋口庸一 (平成16年6月29日/7月25日追加)
 2004年2月と、6月に東ティモールを訪問した現地の様子をつづる。政治的あるいは政策的な目的ではなく、東ティモールという国のことを知っていただければ幸いである。
▼歴史  ▼LPGと財政   ▼生活   ▼住居   ▼ごみ   ▼収入
▼通貨   ▼タクシー   ▼交通と流通   ▼コーヒー   ▼学校   ▼NGO
<UN統治>
 1976年 インドネシアによる武力併合以降、東ティモール独立解放戦線ならびに国民と、インドネシア軍との間に、破壊、陵辱、暴動、虐殺が激しさを増した。
 1999年、国連は多国籍軍(INTERFET)の派遣を決め和平活動を始めた。国連の活動はその後、国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)、国連東ティモール支援団(UNMISET)へとその役割と名称を変えて継続している。

 2004年2月、東ティモールの民生もいよいよ安定し、これから将来に向かって国力を蓄えていこうという時期に、始めて首都ディリ(DILI)国際空港へ降り立った。
 エプロンには純白のボディーの中央に黒字でUNと書かれたシコルスキー社のブラックホークがホバリングしていた。10年前 航空機メーカーに勤務していた当時に担当した機種であったので、個人的に愛着のある機種である。一般的に空港内は防衛秘により写真撮影禁止の国が多いので撮影はしなかったが、その後数週間滞在して地域に馴染んでくると、ここでは特に防衛秘はないということに気付いた。

 入国審査官は東ティモール人であるが、担当官の後ろには迷彩服にMPの腕章をつけたブラジル、ポルトガル、オーストラリアの軍人、中国の文民警察官が指導をしている。入管審査を終えてゲートを出ると、そこにも純白のボディーの中央に黒字でUNと書かれた4WDレンジローバーやランドクルーザーが列をなし、左肩に各国の国旗を付けた軍人が関係者の送迎に来ている。「ああ、国連軍による統治なんだ!」というのが、今でも強烈に印象に残っている。これは映画の世界ではない、遠くの国の話でもない。今、ここに存在している国のことである。

 空港からディリ市内まで車で約15分。目に付くのはUNと書かれた車輌が多いことである。途中の幹線道路沿いに国連軍のヘリポートがある。ベトナム戦争フィルムで見るベル204、アエロスパシアルの大型機ピューマが並ぶ。特に警備が厳しいわけではなく、周辺に市民がたむろしているわけでもない。国連軍は「そこにあるもの」として何事もなく受け入れられているようである。

 タクシードライバーは「Japan? Japan Good」と言う。慣れてくると「Australia No Good, Portugal No Good, Indonesia NO! 」と言う。これは休暇で外食に出てくる日本のPKO自衛隊員の金払いがいいということではなく(それもあるようだが)、怒鳴らない、馬鹿にしない、親切、車の運転が丁寧という日常の立ち居振る舞いから受けた好感であるようだ。自分が日本人だからそうあって欲しいと思って言っているのではない。現地人がそう言うし、滞在していて実際にそう感じていることである。

 しかし、インドネシアとの国境警備を担当し、軍警察の教育を担当して治安を維持しているのはポルトガルとオーストラリア両国軍であり、両国軍なしに治安の安定はなかったとも言える。大阪万博後生まれの小生は、連合軍占領下の日本を勝手に想像してみたりした。なお、日本の自衛隊は給水活動、主要幹線道路の修復工事、工事技術者の養成を担っている。
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<歴史>
 東ティモールを理解するには、ポルトガル、インドネシア、オーストラリアとの関係は重要である。端的に解説すれば、17世紀からポルトガル植民地となり、国民のほとんどはキリスト教徒(カソリック)で信仰は比較的熱心である。戦後1974年、ポルトガルの新政権が植民地政策を放棄したことによって独立運動の機運が高まったが、1976年 インドネシアによって武力併合された。

 東ティモール人の立場で言えば「国連はインドネシアの武力併合を認めないと決議したにもかかわらず、何の行動もとらなかった。しかも、この武力併合を認めた国家がある、オーストラリアだ。」と。しかし、西側の世界史観では、1975年南ベトナム陥落というタイミングと、ポルトガル新政権が解放したモザンピーク、アンゴラがソ連やキューバの軍事支援を受けて戦乱に巻き込まれたことを考慮すれば、東ティモールの共産化は阻止しなければならなかったとの見解になる。現に東ティモール独立革命戦線(シャナナ・グスマオ現大統領の旧母体)はソ連から軍事支援を受け共産主義を目指していた。(後にシャナナ・グスマオ大統領は共産主義と決別。政党フレテリンも民主化へ路線を変更した。)

 1991年、インドネシア軍によって射殺された東ティモール人の葬儀の参列が、独立運動のプラカードを掲げるデモ行進になり、インドネシア軍が発砲。271名が死亡、382名が負傷。「サンタクルツ事件」として市民に記憶に刻まれている。同様のインドネシア軍による虐殺は全国的に広がり、被害は拡大した。時のインドネシア国軍司令官はウィラントである。

 1998年、インドネシア スハルト政権崩壊により、1999年、東ティモールで独立を問う住民投票が実施され、78.5%の国民が独立の意思を表明した。同時に、この結果に不満を持った独立反対派が破壊行為に及び、首都近郊と拠点地方都市のほとんどの建物、主要幹線道路は破壊され、内乱によって国内は荒廃した。この内乱で10万人以上の東ティモール人が難民として西ティモール(インドネシア)へ避難したと言われている。全人口80万人のうちの10万人である。また、内戦の影響による飢餓と病気で10万人が死んだとも言われている。

同年 インドネシア政府・議会が東ティモールの独立を承認したことによって、国連による東ティモール暫定行政機構(UNTAET)が設立され、憲法制定議会選挙、大統領選挙を経て2002年5月20日 東ティモール民主共和国として独立を果たした。独立後、UNTAETは国連東ティモール支援団(UNMISET)として、国境周辺の治安維持や、軍警察の指導に当たっている。

 長く続いた植民地時代、内乱、虐殺、そして国連軍による暫定統治。混濁した言語、文化、宗教・・・。東ティモール人は、今、自分の国、自分自身を見失って、もがいている。現在、東ティモール政府の要職に就いているのは旧来の生え抜きか留学経験者、あるいは公用語のポルトガル語と実務の英語を話す若い世代である。政府スタッフは簡単な英語を話し、テトゥン語しか話せない人は工事現場監督クラスのポジションである。

 内乱・独立戦争を勝ち抜いた新政府は、一般的に闘争の同志だけで政府の要職を押さえようとする。しかし、東ティモール政府はそうではない。シャナナ・グスマオ大統領は演説のなかで常に「民主的で法律に従った政府を運営するために最大の努力をしている」と訴えている。小生の憶測であると予めお断りしておくが、ゲリラ同志では新しい国の建設と運営はままならない。24年間 山岳部で銃を握り、識字率43%以下ではダメだという判断をされたのだろう。

 近年の治安情勢については、2003年に西部国境側地区で3件の武装集団による襲撃事件と、同年12月4日首相官邸焼き討ち事件が起きた。2004年1月24日 ロスパロス地区で国防軍50名による警察署襲撃事件が起きた。首相官邸焼き討ち事件を除き、他の事件は全て現政権に不満を持つ旧ゲリラ残党によるものとされている。しかしいずれも小規模のもので、市民に対して銃口を向けたものではないので、大きな不安を引きずるものではないとされているが、独立(政権)闘争の24年の溝は埋まらないでいる。

 自衛隊の現地通訳スタッフから問いかけられた。「どうして日本は強いのか」と。唐突な問いかけであったが、ここ東ティモールに滞在して、私が見つけられた言葉はこれしかなかった。「日本人としての愛国心、アイデンティティーを持っていることだろうか。」
 彼は「2年間、立派な自衛隊員の皆さんのところで仕事をして、多くのことを学び、感謝している。しかし、日本人はシャイであることより、英語を話さないので深く話をすることがなかったのが残念だ。今日、アイデンティティーという言葉を始めて使った。この言葉は今自分が探していた言葉だ。」と応えてくれた。「どうして日本は強いのか」という問いかけの裏側で、東ティモールの彼らが探しているのは、これから築こうとしている自分たちの国を誇りに思う気持ちだったのだろう。

 しかし、植民地支配、国連統治を経験した東ティモール人の「西洋化志向」は変えられないだろう。自国のアイデンティティーと西洋化は共存できるが同じものではないということに彼ら自身気がついているかどうか。逆に言えば、私たち支援団体の支援方法が西洋的価値観を押し付けていないか、彼らのアイデンティティーを呼び起こす手法であるか問われているのである。
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<LPGと財政>
 1960年代から、東ティモール沖合に石油・天然ガスが埋蔵されていることが確認されている。インドネシアによる東ティモール武力併合をオーストラリアが承認したのは、油田利権を有利に確保するためであった。独立後の東ティモール政府/UNTAETは大陸棚の線引きでオーストラリアの主張を認めず、国際司法裁判所への提訴もちらつかせ、2001年、UNTAETとオーストラリア政府との間で、東ティモール90%・オーストラリア10%という生産利益(ロイヤリティー)配分を定める協定を締結した。大陸棚についてはオーストラリアに譲歩することとなった。
もし、大陸棚の境界線が東ティモールとオーストラリアの中央に引き直されたなら、東ティモールには200億ドル相当の油田資産が入るはずだったと同情されている。

 米国フィリップス社が中心となり、ダーウィンまでのパイプライン敷設等に第1期総額14億ドルの投資を見積もっている。日本からはインドネシア石油、東京ガス、東京電力が資本参加し、2006年からLPGの購入契約を締結していたが、フィリップス社が東ティモール政府とのロイヤリティー交渉の過程で、パイプライン敷設事業を一時中断したため、今のところ生産開始が遅れている。とはいえ、この協定のとおり油田開発が実施されれば、東ティモールには24年間で50億ドルの収入が見込まれ、復興のための財源として期待が大きい。

 2001年度のUNTAET国家予算は3億ドルである。国家財源のうち固定財政基金(CFET)で賄えるのは6500万ドルで、そのうち主たる独自財源と言えるのは油田ロイヤリティー収入の1900万ドル程度である。他は信託財政基金(TFET)7200万ドル、二国間援助1億1300万ドル、その他国連評価支援予算(ASSESSED)5500万ドルで賄う。2002年 独立後は、油田ロイヤリティーに期待をする一方で、CFETの目減り、外国援助の減額など課題は大きい。

 財政支出は、通常の政府支出では計上しない支援プログラムなども含んでいるが、インフラ整備21%、教育20%、健康11%、農業8%、民間開発8%、内務7%、国防警察6%、政府議会5%、その他15%である。

 2003年度総予算は1億9334万ドルである。2004年度総予算は2億3000万ドルで、傾向としては、CFET各予算・トータル予算は2001年比で倍増(1億ドル)している。中でも、防衛費3倍、外交費5倍、地方事業費1/2(プロジェクト満期終了)、電力事業費1/7(インフラ事業で増額)、道路修復費6倍が際立って目立つ。
(なお、道路修復費はCFETの17%を占め、1800万ドルである。)
 TFET、二国間援助、国連評価支援予算が農業、教育、健康、道路修復に重点的に組まれているが、UNTAET時代に比して縮小傾向にある。
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<生活>
 東ティモール人の服装、食事、政府庁舎の建築などは西洋の影響を受けている。隣国インドネシアでは公私を問わずバティック衣装を着ている人が多いことに比べれば、東ティモールではTシャツにジーパン、靴もしくはサンダル、野球帽というのが普通である。食生活もパンを食べることも多い。主要言語であるテトゥン語は古来ティモール語とポルトガル語が混合したような言語であり、現在ではテトゥン語、ポルトガル語、インドネシア語が通じる。商売人は更に堪能に英語を話す。

 学校では公用語としてポルトガル語とテトゥン語を教えている。これに対し政府関係者の中からも「英語にするべきだった」との声が今でもある。6月の地元フリーペーパー(英字新聞)TIMOR SUN紙には、法務大臣の「そういう声があることは承知しているが、法律で決まったことを実施することだ」とのコメントが掲載されていた。

 国民のほとんどはキリスト教徒(カソリック)であるが、元々はインドネシアと同じようにアニミズム(伝統宗教)が信仰されていたはずである。いつからキリスト教に変わったのか明確ではないが、インドネシアによる武力併合後、国軍による暴行、陵辱、虐殺から保護してくれたのはキリスト教会だったので信仰を厚くしたとの研究もある。
 1996年 カルロス・ベロ司教と、ラモス・ホルタ民族抵抗評議会代表がノーベル平和賞を受賞した。

 米、豆、とうもろこし、緑野菜、果実などは自給自足し、その他生活用品・雑貨の多くは安い中国製品で、インドネシア経由で輸入されている。食肉やビール、高級食材はオーストラリアからの輸入が目立ち、パソコンや自動車などは日本製品がシンガポールから輸入されている。
 首都ディリの西側に移設されたコモロ市場、北側の旧インドネシア陸軍駐屯地跡地に移設されたタイベシ市場には、地元の農家や雑貨屋が軒(あるいはゴザ)を並べ、新鮮なものから傷みかけたものまで様々な商品が並ぶ。参考までに市場ではキャベツ1個、菜っ葉1束、パパイヤ1個 各25〜50セント程度であるが、市内で華僑が経営するスーパーマーケットでは品質は選りすぐりのものとなるが価格は3倍になる。市民は市場で食材を求め、外国人は華僑スーパーで冷凍食品を求める。(市場での参考価格に2倍の差があるのは、品質によるものもあるのだが、買い手(外国人)の顔を見て価格を変える輩がいるからである。もちろん、相場以上の時は他の店へ移ることにしている。)
市場で1ドル札を出してもおつりは絶対にこない。キャベツが4つくるのである。

 市場では、若い店子は若干の英語を理解するが、小生もテトゥン語で1,2,3,4,5,25,50の数字は覚えて行った。ところが、25には英語の「ダイム」と「クォーター」という数え方があり、テトゥン語にはできない。
 ときどき、理解できないことに1ドルのことを現地語でサヌル(10)と言う人がいる。平均物価からして10セントでは安すぎるし、10ドルでは高すぎ、公平に考えても1ドルが適正である。1ドル札を出すと「OK」と返事がくるのである。

 男性も女性もびんろうを噛み、歯を失くしている。平均寿命57歳であるので、野菜を売っている40代の女性はお婆さんである。お婆さんたちには数字さえ伝わらないことがある。山岳部の農村で自給自足生活をしてきた人たちが、最近になって町へ野菜を売りに下りてきた人もいるのである。また、山岳部では1ドル札は高額紙幣であり、使ったことがない人もいるから、売るほうも買う方もお互いに気を使う。

 東ティモールに到着して、初めの頃は「市内タクシー1ドル」とだけ聞いていたので、1ドル札の確保に精を出していたが、現地での生活に慣れてくると、乗り合いバス10セント、野菜25セント、屋台のラーメン50セントなので、コインの確保に精を出すようになった。

 弊社ではディリ市に事務所兼住居を賃貸し滞在しているのだが、現地人の60〜135ドルの平均月収と、実際の生活とのギャップを理解することができないでいる。市場での生鮮食品の価格は先に記したが、下記の価格も併せて比較していただきたい。
○外国人向け住居 900ドル/月(東ティモール政府が紹介してくれた、国連価格の高級住宅)

○生活関連/輸入ベッド 200ドル、マット 200ドル、シャンプー 3ドル、ノート 2ドル、コピー1枚 5セント、A4封筒10枚 2.5ドル、ボールペン 1ドル、マーカーペン 1ドル、Tシャツ 10ドル、靴30ドル、ビーチサンダル 3ドル、バスタオル 10ドル、ビール 1.7ドル、炭酸飲料水 1ドル、ホテル 30ドル〜、安宿 7ドル、中華レストラン(1食)3.5ドル、インドネシア米50kg 15ドル、オーストラリア米5kg 10ドル、

○普及している高価なもの/携帯電話 100ドル、中古車(ホンダ1500cc)4500ドル、中古トラック(三菱コルト)9000ドル、中古オートバイ(インドネシア製125cc)700ドル、トラック借り上げ(半日)25ドル、レンタカー1日 90ドル、タクシー借り上げ(1日)40ドル、ガソリン 0.6ドル/リットル、ボトル飲料水1.5ドル/1.5リットル、

○普及していない高価なもの/LPG 18ドル、21インチテレビ 200ドル、衛生放送チューナー 200ドル、冷蔵庫 400ドル、エアコン 400ドル、デジカメ(SONY新型)450ドル、炊飯器(中国製)77ドル、パソコンは注文。
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<住居>
 家の建築レベルは、ディリではセメントブロックを積重ねている程度のものである。所々に鉄筋が入れられていうようだが、不思議なことにこちらのブロックは穴が貫通していないので、鉄筋はブロックと並べているだけである。これでは鉄筋の意味がない。ちなみに、このブロックは1.25ドル/個である。
 セメント製の梁を使用した家屋もあるが、鉄筋は入っていない上、梁の根元が先細りしていたり、太さが不均一のため、かえって危険である。
 こちらのブロック家屋には、ほとんど窓がないので、室内は暗く、風通しは悪い。外敵から身を守るための知恵なのかどうか、あるいは間接照明を利用するポルトガル風の建築様式の影響なのか、いや、そのどちらの理念もなく、ただ単に積重ねただけのもののように思える。
 稀に修復された立派な家屋の屋根は、赤い瓦を使用している。ディリの建築物は、従前は瓦を用いていたのであろう。内乱によって破壊しつくされ、今まさに復興を始めた家屋の屋根は、ようやくスチールトタンである。ディリ市に赤いレンガの屋根が建ち並ぶのを見る日が楽しみである。

 車で30分ほど走り、いわゆる地方の村(集落)へ行くと、パンダナス、椰子、バナナの葉を編んだ通気性の良い東南アジアの伝統的家屋が見られる。こちらの家屋の方がはるかに涼しく健康的に思える。10m2の広さに、板の床というかベッドだけで家具はない。衣服も替えが1着あるかないかという様子で、10人家族が雑魚寝するのが普通の民家である。

 ディリ市の電気普及率は79%であるが、地方の平均は18%と推計されている。上水道普及率はディリ市で25〜50%。市民一人あたりに1日90リットルの上水を供給する能力があるとされている。それ以外は井戸であるが、下水は全く整備されていないので生活排水が井戸へ浸出することが懸念されている。
▲Up

<ごみ>
 首都ディリから約20km、ティバル(TIBAR)村の奥にごみ処分場がある。インドネシア時代に開設されたもので、平地の入り口ゲートから山へ向かって約1km、幅100mのなだらかな窪地がある。日本であれば理想的な最終処分場の地形である。
 持ち込まれる物は、生ごみ、プラスティックごみ、鉄くず、自動車部品など全てのものが分別されずそのままで、処分場内で野焼きされている。
 若干の悪臭とハエがいるが、生ごみを埋め立てていたころの東京湾夢の島に比べればマシである。しかし、野焼きの後、覆土もせず、放置しているので、焼却灰の飛散、不完全燃焼、ダイオキシンの発生、土壌・水質汚染の危険は非常に高い。

 このごみ処分場の中に生活する最低貧困層の人たちがいる。分別されないごみが搬入されてくるので、中には食べ物の端があることがある。端というよりも、ペットボトルやマヨネーズチューブの内側に残ったものを見つけているようなものである。
 処分場の真ん中、道路端、山の斜面に15人くらいいたであろうか。小さな子どももいた。牛もいた。小生は物見遊山で遊びに来たわけではないし、彼らの生活を覗きに来たわけでもないが、予想通り「おまえたちの来るところじゃない、こっちへ来るな、写真を撮るな」と罵られる。

 JICAはアジア・大洋州でごみ処分場の調査、建設協力を実施している。東ティモールのこの処分場も「視察」はしたそうだ。日本では焼却方式からの脱却が議論され、分別とリサイクルの徹底、溶融による固形無害化方式が主流になりつつあるが、発展途上国の技術力と予算、管理能力で採用し得る処理方式は、汚水浸出防止シートを敷設して水処理を施し、汚水被害を防止する程度である。この方式は1970年代に福岡大学で開発されたので「福岡方式」と呼ばれている。
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<収入>
 ディリ市内の労働者の収入は、平均3ドル/日で、毎日仕事があるわけではない。失業率75%である。地方の農村(山岳)部では自給自足がベースにあるとはいえ収入は16.5ドル/月で、貧困層に位置づけられる。(ただし、「家族の幸せ」の指標には当てはまらないことは、お分かりのことと思う。)
多少の英語が話せて国連のローカルスタッフ(警備員や運転手など)になると100ドル/月の収入が得られる。公務員は135ドル/月と聞いている。

 日本語を話す弊社の通訳は240ドル/月である。通訳として2年働けば、ちょっと外れに家が建つと言われているが、彼は8人兄弟の真ん中、27歳で、一家の大黒柱である。OISCAの自動車整備研修生として姫路で2年間研修を受け、帰国したら東ティモール民主共和国になっていたと。その後、PKO自衛隊で通訳をし、PKO撤収後の職探しで弊社へくることとなった。自動車整備の技能と日本語を生かして、中古車輸入を手がけたいと言っている。

 国連特需による恩恵組とそうでない人との生活の格差は、どんどん広がってしまうのであろう。しかし、今月末(2004年6月)に国連(UNMISET/PKF)が撤収した後は、国連のおかげて収入を得ていた人たちはどうなるのだろうか。国連のコンテナ輸送をしていたドライバーは「アフガンかシエラレオネにでも行くか」と言っていた。
 独立反対派の破壊行為によって国が荒廃したとき、インドネシア人と、東ティモールの知識人は、インドネシアへ転居してしまった。国連撤収のこの時期、また一部の知識人と有能な労働者は国外へ職を求めて転居してしまうのだろうか。
東ティモール独立によって家族が分断されたという話は聞かなかったが、恋人と離ればなれになってしまったという若者はいた。

 東ティモール復興のためには国内殖産、職業能力の向上が急務であることは学者や支援団体の諸氏が指摘するところであるが、現実には既に外国資本が国連特需と安い労働力を求めて進出し始めているのが現実である。
▲Up

<通貨>
 通貨は米ドルであるが、50セント、25セント、10セント、5セントのコインは東ティモール政府が独自に発行し、米セント以上に流通している。コインの単位はセンタボ(CENTAVOS)である。

 市内にはポルトガル系BNU銀行、オーストラリア系ANZ、インドネシア系MANDIRIの3つの銀行がある。ANZは数箇所にキャッシュディスペンサーを設置しており、VISAカードからのキャッシングもできるし、クレジット決済の端末も用意されている。現地の事業者が好んで利用しているのはBNUで、税金を納める人、給与を引き出す人など毎日長蛇の列である。一方でMANDIRIはインドネシア系だからであろうか地元の人には人気がないようで、私たちにとってはかえって好都合である。口座を開設するのに必要な最低預金額は500ドルからである。外貨両替もしているが、日本円の真贋判定ができないので、口座を持っていてパスポートを提示しても両替を嫌がっていた。

 現地の預金者は、ほとんどが1ドル札を持ってくる。事業を営んでいる人の預金であるから、ものすごい札束になる。私は逆に日本の銀行で受け取った100ドル札を1ドル札に両替してもらったのだが、銀行員が「こんなお札しかないけどいいですか」と恐縮していた。なにしろ、汗と垢にまみれ、湿って若干臭いを発するようなプレミア紙幣である。ちなみに、この1ドル札は、インドネシアでは拒否されるので、東ティモール内で使い切らなければならない。

 タイス・マーケット(伝統織布の市場)で、ポルトガル植民地時代の紙幣とコインを入手することができた。紙幣の発行所はBNU(Banco Nacional Ultramarino / Lisboa)で、通貨単位はティモール・エスクード(Timor Escudos)で、表記は宗主国ポルトガルと同じである。特徴的なことは、壹佰厂斯科多(100エスカーダ)、弐拾厂斯科多(20エスカーダ)と、漢字が併記されていることである。コインはポルトガル共和国ティモール 10$00、5$00、1$00である。
(当時のレートについては不知。)

 同僚から「独立国家でありながら通貨発行権はないのだろうか」との意見があった。私の承知する範囲では独自通貨を発行していない独立国には、パラオ共和国やミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国(米ドル)、キリバス共和国やツバル、ナウル共和国(豪ドル)などがある。
いずれも大洋州の島嶼国であり、大戦後に独立したが財政基盤、経済基盤がないため、アメリカを始めとしたいわゆる西側諸国が「コンパクト・マネー」と呼ばれる「基本財政基金」を設立し、その運用と基金の切り崩しで政府を運営している国々である。
 東ティモールでは政府予算に組み込まれているCFET(国連東ティモール固定財政基金)がこれにあたる。もし、現状で東ティモール政府が独自に通貨発行権を行使したらどうなるであろうか。金準備高あるいはCFETに裏打ちされない通貨になればとたんにインフレを起こし、現在、米ドルでかろうじて安定している経済が不安定になるであろう。
 また、米ドルだからこそ国連や諸外国との交易ができるのであって、独自通貨に切り替えたとたんに外貨(米ドル)準備ができずに貿易の決済がストップしてしまうであろう。
▲Up

<タクシー>
 タクシードライバーの収入は25〜35ドル/日である。約4500ドルの日本製中古車を銀行からリースし、毎週70ドルの支払いをしなければならない。タクシードライバーは割りのいい職業なので、みんながみんなタクシードライバーになりたがる。実際に市内を走っている車はUN車輌かタクシーばかりである。2月の訪問のあと、6月に再訪した時には、タクシーの数は更に増え、車輌も新しくきれいなものになり、朝夕は渋滞がおき、タクシーもつかまらないくらいくらいである。2月には全く聞かなかった自動車事故も6月には毎日のように起きている。警察の免許取締りも見られるようになったが、それ以前に、運転教習を実施し、交差点では交通整理をするべきだろうと思う。

 現地の運転免許制度は、自分でちょっと練習して運転できるようになれば、免許証を申請する届出制。最近、免許証の申請が制限され、運転免許証の必要性を雇用主が証明しないともらえなくなったとのこと。弊社の現地語通訳F氏はインドネシア時代の運転免許証は持っていたが東ティモール政府の運転免許証を得るきっかけがなく、この度、弊社の雇用証明書をもって無事免許証を取得し、大いに喜んでいる次第である。
 なお、タクシーも乗り合いバスも個人事業主で、こちらは登録制である。最近は自動車のナンバープレートの製造、発行が追いつかず、紙に書いて窓に貼り付けているものが多い。

 JICA(日本国際協力機構)は、近々ディリ市内に信号機を設置する計画らしい。現地人の情報網というか噂は早いもので、自衛隊やJICAの動向を私たちが現地人から教えてもらうことが多いのである。

 6月末のUNMISET縮小・PKO撤収後の7月中旬に再訪した情勢を付け加える。タクシーの台数が著しく減って、安全運転になっていた。もちろんUN車輌も減ったので道路はすいている。国連関係のタクシー利用者がいなくなったことで、毎週70ドルのリース代金返済ができなくなり、タクシーを没収されたようである。

 自動車の運転免許証発行については、コモロ(COMORO)地区に自動車運転免許試験場があって実技試験を受けなければならなくなったとのこと。弊社の英語通訳A氏にも「雇用証明書」を発行し運転免許証の取得をさせようとしたが、実技試験に落ちてしまった。
▲Up

<交通と流通>
 東ティモールには2つの空港がある。空の玄関であるディリ空港の滑走路は1850mでジャンボは離着陸できない。現行B737が毎日1便飛んでいる。
 ディリの東135kmのバウカウ(BAUCAU)の空港は高原地にある滑走路2515mの旧インドネシア軍港である。現在は国連軍の物資輸送に供されているのみで、民間機の離発着はない。その他、オクシ(OECUSSE)、スアイ(SUAI) 、ロスパロス(LOSPALOS)、サメ(SAME)、ビケケ(VIQUEQUE)、アタウロ(ATAURO)及びマリアナ(MALIANA)に1000m級の未舗装空港があるが、一般に供用されていない。整備された商業港はディリ港とオクシ港のみである。
 ディリ港は水深15メートル程度で、周囲は遠浅、岩礁が目視できる危険域で、大型船の入港は不可能で、船底の浅い1500トン程度のフェリーが入港できる。
 港湾基盤はインドネシア時代に建設されたものだが、桟橋はポンツーン方式で、損傷が激しく長期的な重荷役には耐えられないと思われる。日本政府に対して補修工事の要望があがってきている。

 UNDP国連開発計画と、日本ODAによって補修工事がなされた。補修工事第1フェーズは灯台と航路標識の補修、第2フェーズで保税倉庫の建設、UNDPは操車場の整備を実施した。
 荷役・操車は、東ティモール企業とオーストラリア企業の合弁会社が運営している。コンテナ、貨物、船舶の多くはPERKINSとMERATUS社のものである。荷役には移動式クレーン車5台が稼動している。桟橋は損傷が激しいためガントリークレーンを固定することはできない。日本を含め数社から移動式クレーンの営業提案があったが、追加の予定はないとのこと。

 飛び地領土オクシには、ディリ港から週3便のフェリーが出ている。その他の港はほとんど整備されていないので現時点では期待できないものである。ディリの西約15kmにチバル(TIBAR)漁港、東約15kmにヘラ(HERA)漁港があるが、水深は5mと浅く漁港として整備されたもので、商業港としての能力はない。

 陸上交通は、山岳部で4トンダンプが重用されているほか、地方都市間を長距離大型(中型)バスが運行している。ただし、長距離バスも北の海岸線沿いの幹線道路が整備された都市間のみであり、山岳地帯を越えて南部へ行くものはない。
 港に荷揚げされあたコンテナ貨物は、幹線道路沿いの都市であれば大型トレーラーでの輸送が可能であるが、雨期には幹線道路も頻繁に崩壊し、山岳部を越えるルートは困難である。従って、都市として発達しているのはディリと、北海岸の周辺程度である。

 ディリ市内の流通、宅配便システムは、DHLとFEDEXの代理店があり書類程度を主要施設(国連や大使館、高級ホテル)を対象に配送をしている。
一般商店の商品は商店主が独自に配車しているが、商店と言っても家具、衣類、電化製品などがほとんどで、冷凍食品を扱う高級商店は3店舗しかなく、冷凍車は見たことがない。
時々、ヤマト運輸の冷蔵車が走っているが、冷蔵機能を生かすことなく一中古車として走っているだけである。

郵便制度は出来ているが、ディリ郵便局に私書箱があるだけで、配達システムはない。
▲Up

<コーヒー>
 東ティモールの特産物はコーヒーであり、主要輸出品でもある。
 豆は、最高品質のアラビカ種であり、世界中の人に親しみやすい。なおかつ、自生する天然豆であり、化学肥料、農薬を一切使用していない、健康ブームにのった理想的な商品である。
 シャナナ・グスマオ 東ティモール大統領が今年(2004年)2月に東京の国連大学で講演をしたときに「東ティモールの農作物は100%オーガニックで、輸出品として力を入れていきたい」と宣伝していたが、発展途上を逆手にとった期待の大きい一品である。

 国内一の生産地であると言われるエルメラ県(Ermera)へ行った。県人口8万4500人、ディリ市から約70kmの山岳地である。平均標高1100メートル、最大標高1400メートルの稜線に沿って、崩れたコンクリ道を平均時速25kmで走る。慣れた現地ドライバーは時速35kmでかっ飛ばすが、我々はたどり着くまで3時間を要した。途中、グレノ町(Gleno)の大きな市場を通り過ぎて、エルメラ町へ着いた。
 小さなバスターミナル広場にすることのない人たちがたむろし、左側に大きなキリスト教会、右側に50メートル程さびれた商店街が延びる。この一本道がエルメラ町の全てである。教会の後ろの山の上に中学校がある。産業はコーヒー豆の収穫の他は何もない。

 エルメラ町からグレノ町まで10kmくらいであろうか、市が立つ日には多くの町民が物を売りに、あるいは買いに歩いていく。ちょっと小銭があれば乗り合いトラックに、振り落とされないようにしがみついて乗ることができるが、赤ん坊を抱えて一家揃って歩いている人も多い。

 コーヒーの生産地と言っても、プランテーション農場があるわけではない。コーヒーの木が自生しているのである。山全体がコーヒー園なのである。どこからどこまでが誰のテリトリーなのか分からない。赤くなった実を採って庭で乾燥させ、60kg袋に入れ、午後にCCT社(Cooperative Cafe Timor)の買い付け人が黄色いトラックで巡回して来て、天秤秤で重さを量って買い取っていくというシステムである。(CCT社は米国政府国際開発庁USAIDによって支援されている。)

 2週間ほど天日で乾燥させた豆は60セント/kgで買い取られる。その後焙煎し、細挽きされたコーヒーはディリ市内で2ドル/kgで販売されている。コーヒー粉は樽の中からコップでの量り売りで、黒いビニール袋に入れて持ち帰るのである。ちょっと上品になると、Cafe Timorとプリントされたビニールパックに500g、1kgと予め小分けされて売られている。

 外国人がお土産用に買い求めるものは、オーストラリアのUniversal Brands社がアルミパックに密封した商品で、250gで5.5ドルである。「各パックの売上げごとに20セントを東ティモールのコーヒー組合復興のために寄付する」と印刷されているが、そもそも現地市場の11倍の価格では・・・、と思ってしまう。(いくつかの日本のNGOも東ティモールのコーヒー生産者支援をしており、日本国内で販売もしています。こちらも200gで600円・・・。)

 細挽きなのでエスプレッソ向きであるが、砂糖を沢山いれてブレンドのようにして飲む。カップの底には粉と溶けきらない砂糖が残るので、少し残す。東ティモールに来て日が浅い外国人(国連スタッフ)は「このコーヒーは粉っぽいぞ」と文句を言うが、こちらの流儀はそんなものである。また、こちらではミルク(牛乳)を売っているのを見たことがない。水牛とヤギはいるが、乳牛はいないのである。我々は日本からクリープというものを持ってきたが、インドネシアではコンデンスミルクを入れて飲むのが流儀らしい。外国人向けのスーパーマーケットでオーストラリアから輸入される長期保存パックの加工乳を見つけることができればラッキーである。
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<学校>
 新しい国づくりに突入した東ティモール政府は、学校教育に力を注ぎ、トータル予算配分もインフラ整備21%についで20%を充てている。
 実は、東ティモールにおける学校の設置は、インドネシア政府時代にも優先的に行なわれていた。1978年に47校だった小学校は、1999年には788校に増えた。中学校は2校から114校へ、高校は0から54校へ増えた。

 このことは、武力併合した国家がインドネシア語を教え、インドネシアの文化を広めるという目的で、当然の統治手法である。インドネシア政権は1976年から10年間で43億ドルのインフラ投資をした。UNTAET総予算まるまる14年分に相当する。
 1999年の独立後は、東ティモールでは行政機構が機能していなかったため、公式統計は全くないのが現状である。最も信頼できる新しいデータは国連開発計画(UNDP)による2002年報告であるが、ベースは1999年までのものである。

 東ティモールにおける教育の問題点は、1)教師がいない、2)子どもたちも労働が優先される、3)授業料が支払えない、4)校舎が破壊されている、5)机、黒板、教材がない、6)通学に遠い、と多難である。弊社事務所の隣は国立DHAMA BAKTI高校であるが、学年ごとに色で識別されたポロシャツ制服を着ているが、ほとんど手ぶらで通学している。近隣の学校もほぼ手ぶらである。

 ディリには大学が4校あるが、大学院はまだないので国外留学することになる。問題点1)教師がいないことの理由は、優秀な政府スタッフが少ないことと同様、内乱で知的階層が国外へ流出してしまったからである。したがって、現時点で東ティモール政府は、大学院生の国外留学も本音では遠慮してもらって建国のために汗をかいて欲しいと思っているようである。
 学校の運営母体は3種類ある。国立学校、キリスト教会の運営学校、私立学校である。国立学校は授業料が安く、小学校は1ドル/月、中学校・高校は5ドル/月、国立ティモール大学は100ドル/年である。しかし、平均10人兄弟家族がみんな小学校に行くことは財政的に不可能である。また、教師不足のため、授業は午前の部と午後の部に分けられたり、十分に行き届いているとは言えない。
 私立学校は授業料が高いと言われているが、私立学校の経営母体など具体的な情報は収集しきれなかった。NGOが校舎を設置したり、ボランティア教師で運営する学校が私立と呼ばれているのかもしれない。
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<NGO>
 東ティモールでは多くのNGOが活動している。民間(NGO)運営による「NGOフォーラム」に登録されているNGO団体数は、国際NGO250団体、国内NGO200団体であるが、今日も実際に活動を継続している団体数は正確に把握されていない。主な活動は、医療、住居修復、教育、農業などが多く、パソコンや法律相談、会計学、選挙監視などもある。NGOフォーラム事務所の掲示板には、現地NGO参加者向けに「英語教えます」という張り紙が、また、国際NGO参加者向けに「テトゥン語教えます」という張り紙が出ている。

 UNMISET本部は「オブリガード・バラックス」と呼ばれている。ポルトガル語で「兵舎(簡易住宅)をありがとう」という意味で、本当に簡易住宅(プレハブ)を本部として使用している。また、このプレハブは「コウベ・ハウス」を呼ばれており、阪神大震災のときに神戸で使用されたもので、どういう経路からか、現在、東ティモールで国連本部として活用されているのである。「コウベ・ハウス」は、もはや国連の公用語となっているのである。
そして、本年(2004年)6月末をもって(予定通り)UNMISETが縮小され、PKOに参加していた日本の自衛隊も撤収し、隊員たちが業務と生活に使用していたプレハブ600棟も、東ティモール政府に譲与される。

 昨年末、イタリア軍が一足先に撤収したとき、駐屯地に置いていった建設資材(コンパネやシート、工具など)は翌日にはみんな盗まれてしまったらしい。自衛隊も過去にカンボジアPKOから撤収する際に民生品を譲与したが、指導員がいなくなって現地人が使いこなせず、メンテナンスもできず、放置されてしまったという話がある。東ティモールでも、自衛隊第1次派遣隊が建設機材を一部すでに譲渡しているが、実際のところ、政府が燃料を十分に手当てできず、大事に保管されているものが多いようである。
 NGO活動、あるいは拡大して言えばODAも同様であるが、「○○生産支援で、○○機械を寄付したが、燃料がなく、技術とノウハウがなく使えなかった」という事例は山ほどある。同じ失敗を繰り返さないように支援プログラムの精査は重要であると言うが、プロジェクト期間中は成果を出したが、プロジェクト終了後はフォローアップしきれなかった、という傾向は否めない。

 また、自衛隊撤収の際、余剰食糧が倉庫1棟分あったが、「食糧は残すと盗難ではなく強盗に入られる」という話をしていたら、東ティモール政府が早速トラックを連ねてやってきた。ほとんどが調味料とレトルト食品であったが、「中華丼の素」などどうやって調理して食すつもりなのだろうか。

 ついでに面白い逸話があるので紹介したい。
日本の自衛隊は、民生支援で主要幹線道路の修復工事を実施していたのだが、地方で長期の工事があるときは自分たちの居所としてプレハブを持って行っていた。工事が終わり、地方を離れることになるので、プレハブを東ティモール政府に譲与したのだが、その後、大雨の被害が発生し、同じ地区で緊急に道路修復工事をすることになった。自衛隊は「以前に自分たちが使用していたプレハブを使いたい」と東ティモール政府に申し入れたが、「プレハブは日本外務省を通じて譲与された。日本外務省からは「軍事利用してはいけない」と厳しく言われており、軍隊である自衛隊に貸すことは出来ない。」と断られた・・・と。

 東ティモール政府には各国の軍隊から多くの資器材を譲与されているが、日本の自衛隊のものは新品で、日常整備が徹底しており評価が高い。ランドクルーザーやパジェロなどの車輌も、自衛隊管理下にあったものが一番人気である。資産管理を担当する計画財務省と公共事業省が先にとってしまうようである。
 いずれにしろ、全ての譲与機材を有効に活用しなければ、盗難のターゲットとなり混乱を誘引してしまうことになる。

 弊社は、自衛隊のOBが発起人となり、民間も参加して、「自衛隊から譲与された各種機材を東ティモール政府が有効に活用できるよう技術訓練、支援を実施する」目的で設立された。
建設重機のオペレーティング、整備教育はJICAが6ヶ月プロジェクトで実施することとなったが、組立ハウス(プレハブ)の建設技能訓練は弊社が実施する。

 これらの資器材は、日本外務省を通じて東ティモール政府に譲与されたものなので、当然、東ティモール政府の管理下にある。国連や政府外郭団体が相手国政府に対しアドバイザーを派遣することはあるが、いちNGOが政府資産の運営を担当するという事例はほとんどないと思われる。
 弊社のカウンターパートは公共事業省・資器材資産運用局である。研修生は主に公共事業省の現場責任者で、簡単な運用計画作成、図面作成、クレーン操作、玉掛け、組立、管理監督を修習する予定である。

 私は、国づくり、復興支援には「教育」と「職業訓練」が重要であると思い、譲与機材の有効活用もさることながら、職業訓練としての位置づけを強く打ち出して行きたいと思っている。
 日本外務省に「NGO支援無償資金協力」の相談をしているのだが、「職業訓練/人材育成」の成果は個々人の能力に差があり、形あるいは数値として評価しにくいので好まれないようである。単純に、「○○機械を導入し使用法を教えることで、生産能力を○○%向上させる」というほうが理解されやすいようである。

 ある国連プロジェクトサービス事務所(UNOPS)職員は彼女のHPで下記のようにコメントしている。
「あるとき、尊敬するビルマ人の責任者が、プロジェクトが成功する秘訣は、
(1)プロジェクトのスタッフに忠誠心と強い意思があること。
(2)中央と地方政府の担当者がプロジェクトに積極的であること。
(3)対象地域の住民に変わろうとする意欲があること。
だと教えてくれました。この3つのどれか1つでも欠けていると、プロジェクトの成功は望めないのだそうです。現在、世界で展開している開発プロジェクトの成功率は17%と聞いています。いかにお互いのモティベーションを高めながら同じ目標に向かって協力し合っていくかが、私たちの大きな課題です。」
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